裁判員と、公私の“公”

tonapa2009-09-07

8月3日の初公判から約1ヶ月。いよいよ全国各地で、裁判員制度による裁判の実施が本格化してきている。
しかし世の中にはまだまだ、「自分が人を裁くなんて」と裁判員を忌避する声も根強く残っているようで。
う〜ん、お呼びとあらば即参上、の覚悟完了な私の目からは、この裁判員忌避の気持ちがいまいち理解できない。
そもそも「自分が裁く」なんて個人志向全開の考え方が変だよね。
裁判員は公人であって、裁くのもまた「公人としての自分」。
いっぱしの社会人であるならば、公私の区別はきちんとつけられるのが当然。ならば公人としての裁判参加に、一体何をためらう必要があろうか。
自分達のコミュニティのトラブルは、本来、自分達で解決すべきもの。
納税の代償としての社会システムが、うまく司法を操れずに窮してしまっている現状において、軌道修正の為の助力を請われれば、それに手を貸すのが国民の務めというものあろう。
税金払ってんだから、あとは何でも他人任せ、だなんて、正直、無責任もいいところだと思う。


実際、今までに下された裁判の判決を見る限り、今のところこの裁判員制度は、うまく機能しているように思う。
日がな一日、本と資料の山に埋もれ、現実社会をの意識乖離が懸念されている本職の裁判官にとっても、この制度はすこぶる良い刺激になっているんじゃないかな?
選挙と同じく裁判だって、自分達が興味を持って前向きに参加し、大いに議論することによって、より良い結果を導けるようになってゆく。


今の日本人に欠けているのは、世の中を動かして居るのは自分達だ、という当事者意識。
何でも他人任せという考え方は捨てて、大いに裁判員制度が盛り上がる(?)ことを期待したい。