博打で蔵建てた奴はいない
神戸地裁で行われた裁判員裁判のニュースから。
実父に対する殺人未遂罪で起訴された砂野政雄被告への質問の中で、“パチンコ”に関する話が妙に引っ掛かったので書き留めておく。
男性裁判員「借金の返済額が6万円くらいというのが耳に残っていますが、これを払って時々お父さんとお母さんにも払う
被告「パチンコで勝ったときは1日20万がざらなんですよ。借金をしてでも稼げるときはでかい金を1日で稼げたわけです。だから借金をしもってでも生活費を工面しながら実家に渡したり、買い物のお金ができてたんです。2〜3年前から勝てなくなって、最終的に工面できなくなりました」
男性裁判員「3つの金融機関からこっちで借りてこっちへとまわして2年くらいしていたんですね。それで借金はもう借り増しできなくなった」
被告「事件を起こしたときはかつかつでした」
男性裁判員「それまではどうですか」
被告「考えられへんかもしれませんけど、そうやってパチンコで暮らしている奴はざらにいるんです。これで稼ごうと思ったら真剣になるじゃないですか。パチンコも同じように、かなり勉強しています」
男性裁判員「入っていくのと出ていくのがそういう生活が2年も続いて、これだけの借金ですむはずがないと思うんです。お母さんの通帳を預かっていたとかはありませんか」
被告「それはありません」
男性裁判員「どうやっていたのですか」
被告「この日に出るという日はあるんです。その時だけを狙えば、1日に1万、2万、3万くらいはいけてました。負けを押さえて勝ちを増やしていけば、アルバイト程度の収入にはなってたんです」
《砂野被告は少しいらだったように、どのようにパチンコで稼ぐかを説明した。男性裁判員はどうしても納得がいかないようだ。男性裁判員は砂野被告になぜこんな質問を続けるのか、語り始めた》
(太線強調は引用者による)
パチンコで生活できる・・・まだそんな事を考えているヤツ、いるんだね。
今さら説明するまでもない事だけど、(昔はともかく)今のパチンコは、厳密な意味においては「ギャンブル」とは言えない。店側があらかじめ当たり率や出玉率を設定できてしまう時点で、ギャンブルに必須である“偶然性”は極小*1となり、結果、その遊技内容は、博打というよりは宝くじのそれに近いものになってしまっている。
つまりね、パチンコで“勝って”いるのは店側=胴元だけ。
客は“勝負”しているつもりだろうけど、実際には店側に踊らされているにすぎない*2。
胴元が絶対に負けないなんてのは、ギャンブルではない。ただのビジネスだ。
「パチンコで生活できる」なんて発想は、たぶん、そこんトコに気がついてないからだろうな。
ちなみにこの裁判、求刑・懲役5年のところを、懲役3年、保護観察付き執行猶予4年の判決が下された。
被害者親族が刑罰を望んでいない、というのもあるが、保護観察付きというのは、なかなか良い判断だと評価したい。
40歳にもなってなお、法廷で「パチンコで生活できる」と言い切ってしまうような人間は、誰かがきちんと側について指導をしなければ更正は不可能だろう。
言い古された言葉だけど、博打で蔵建てた奴はいない。ましてやそれが偽ギャンブルなら尚更である。レジャーでパチンコを楽しむことまでは否定しないけど、間違っても“勝った”“負けた”などと錯覚はしないように。
勝ってるのは唯一、パーラーだけ。
今、手元に返ってきた金は、たまたま多めに切り分けられたパイのおこぼれに過ぎない。あなたが金を手にした分、別の客が金を失っているのだ。
え? 「それでも金が増えてるのなら、勝ってるって事じゃないか」って?
それじゃ聞くけど、あなたはパチンコ屋に入って玉借りて、一体、誰を相手にゲームをしたの?