言葉のイメージだけが先行し過ぎてないかい?

tonapa2009-09-02

はてな匿名ダイアリーの記事に、連日、ネット右翼ネトウヨに関する記事が上がって注目されている。例えば、「ネトウヨなんて実在するの?」とかネトウヨ大憤死の巻とかがそうやね。


ネット右翼なるものが存在するか否かと問われれば、そりゃ間違いなく存在するでしょう。
たぶん私なんかもその内の一人な訳で。:-P*1


ただね、ネトウヨは実在するけれど、それは決して言葉からイメージされるような存在じゃないと思う。
ネトウヨとは、いつの時代にもありがちな、ごく普通の若者の一形態に過ぎない。社会に対して不満を持ち、それを何とせにゃならんと憤る気持ち。それがネットという場を借りてカタチになったのがネトウヨかと。所詮は、そんなもんじゃないのかな?


かつての全共闘時代には、社会不満から出口は共産主義革命方面に向いていて、そちらに歩み進んできた若い憤りは、学生運動フォークソング集会という場でカタチを得た。
今はそのベクトルが逆になり、結実の場がネットに変わっただけ。でも中身や本質の部分は何も変わっちゃいないんだよね。
ネトウヨはちょっとした“ムーブメント”ではあるけれど、“パワー”と呼べるほど組織化はされていないし、傾向としては感情が先走っていて理論的な部分の詰めは甘い。
そしてたぶん数年も経てば、飽きられて自然消滅するか、別のムーブメントに世代交代して行くんじゃないかな?


ネトウヨが危ないとか、集団で誘導工作してるとか言う人は、たぶん左翼なんでしょう。
全共闘世代の揺りかごから僅かに巣立ち、大きく育つことに成功した希少なホンモノの左翼たち。
自分たちが組織化されているから、ネトウヨもきっとそうなんだろう、って。
でもそれは、ただの幻想。
ネトウヨはそこまで上等じゃない。
ただの怒れる若者が、溜まりやすい場所に自然と集まりドロドロと淀んでいるだけ。
それは時代の生み出す澱のようなものであって、決して政治的な“パワー”を生み出すまでには至らない(至れない)。


結論。
ネトウヨは確かに存在するけど、それは怒れる、若き、烏合の衆に過ぎない。
言葉のイメージばかりが先行してるけど、実態はそんなモンよ。


まーでも若者が天下国家について考え、意見を述べるのは良いことだと思う。

”若者がなにか発言するとき、その内容は正しくない。
しかし、発言すること自体は絶対に正しい”
もし彼の学校の教師が彼の行動を止めようとするのなら、彼の行動を守るために僕は弁護士費用を出したっていい。
(たとえ相手が彼の脳内の架空の敵であっても)戦います、と言った彼の若さと無謀さと勇気に僕は感動を覚えるし、全力で走って跳ぼうとしている彼を止めることはいけないことだと思うのだ。跳ぼうとしてる先は崖だけどな。



まさしく、その通りだと思う。
ちょっとぐらい青臭くてもいいじゃないか。
いや、むしろ若者は青臭くあるべきだろう。
疲れたオッサン世代のシラケ・ムードに染まるなかれ。
もっともっと色々主張して、今回の選挙みたいなのも経験して、それで世の中が良くなるのなら万々歳だと思うよ、うん。


ただ、流石にネトウヨ大憤死の巻は、やりすぎだと思うけどね。
つーか、いくらなんでもネタだろ、これ? :-)

*1:とか言いつつ、私は私生活や職場においても国粋主義民族主義的な意見を隠して無いので、ネット“限定”だと思われては少々心外なんだけどね。かといって積極的な政治活動を行っている訳でもないから・・・だから自分のスタンスを表現する時は、「右曲りです」と言うようにしてる。ダメかな?